原産地

近代栽培いちごの起源は、北米東部原産のフラガリアバージニアーナ(Fragaria irginiana)と南米チリ原産のフラガリアチロエンシス(F. chiloensis)とが、ヨーロッパで自然交雑された種間雑種であり、その時期は1750年頃と推定されています。

日本、長崎県への伝来

日本に入ってきたのは、江戸時代末期でオランダ人が長崎に伝えたことで、「オランダイチゴ」と呼ばれました。しかし、野生のいちごを食べていた当時の日本人にとって、あまりにも大粒だったので、普及しませんでした。
日本で最初に育成されたいちごの品種は‘福羽(ふくば)’です。
1899年に福羽逸人博士が新宿御苑でフランスから導入した品種を改良して栽培に成功しました。‘福羽’は促成栽培用として広く用いられ、その後これが親となって次々と新品種が生まれました。
長崎県におけるいちご栽培の始まりは、1894年頃という説と明治末期から大正の始め頃という説の2つがあり、いずれについても長崎市矢上(東長崎)において取り組まれたとされています。
1960年代までは主に5~6月に食べられていましたが、食生活の変化で需要が増加し、栽培方法の変化や品種改良が進んだことで、現在では主に冬から春の食材となっています。
いちごの品種の変化は激しく、現在は東の‘とちおとめ’、西の‘とよのか’が天下を二分しています。

主要産地の推移

長崎県県北におけるいちご栽培は、1923年頃、岳野町に始ま
り、1938年頃吉井町に広がりました。
県下に広く栽培されるようになったのは、1960年に‘シャスター’の苗の配布と1965年‘はるのか’の導入およびハウス栽培の普及が契機でした。‘宝交早生’の促成栽培が開始された翌年の1974年には、栽培面積は100haを超えました(103ha、統調)。
また、1984年に‘とよのか’が導入された後に栽培面積は急増し、1989年には200haを超えました(233ha、統調)。
さらに、2000年に‘さちのか’が導入された後も増加傾向を辿り、2003年には300haを超えました(307ha、統調)が、翌2004年をピーク(314ha)に減少傾向に転じ、2011年の作付面積は289ha(統調)です。
産地は、前述のように、1960年までは、長崎市と佐世保市が中心でしたが、‘シャスター’の苗配布により大村、松原、国見などに産地が形成され、‘はるのか’の導入により東彼、北高、西有家などに産地が拡大しました。それ以降、島原半島で特に産地化が進み、市町村別統計の最終年である2006年には県下の約60%の作付シェアを、また2012年には県下の約70%(系統面積)を占めています。

機能性

いちごは野菜の中でもビタミンC含有量が多く、果実100g中に62mgも含まれています。ビタミンCは、有害な活性酸素から細胞を守る抗酸化ビタミンで動脈硬化や脳卒中を予防する働きがあります。また、ビタミンCとともに抗酸化能をもつアントシアニンなどのポリフェノール類が多量に含まれています。
この他、細胞の老化を防ぐとされるビタミンE、正常な造血作用に必要な葉酸など、多くの機能性成分を含んでいます。

いちごの果実

いつもみなさんが食べている赤くて甘みのある太った部分は、果実ではなく『花托(かたく)』と呼ばれている部分です。実は表面にある黒いつぶ、一粒一粒が『痩果(そうか)』と呼ばれる本当の果実です。

※参考文献
・「長崎県農林産物の伝来と歩み」平成25年3月
 長崎県農林技術開発センター
・「長崎・旬・ものがたり 9」JA全農ながさきHP
・「野菜ブック」食育のために 独立行政法人農畜産業振興機構

※写真提供:長崎県農林技術開発センター

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